伊藤ちゑから見た賢治

  伊藤ちゑと高瀬露
 

 伊藤ちゑから見た賢治
 意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)の中には次のようなことが述べられている。
 それは、伊藤ちゑと宮澤賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対してちゑは、
     今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
とか、
     ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
という哀願や批難を森宛書簡の中に書いてあるということが、である。
 しかもそれだけではなく、まだあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛のちゑ書簡中においても、
     又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋(〈注十七〉)花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしている。
 したがってこれらのことから、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということがもはや否定できない。巷間、賢治が結婚したかった〈聖女〉ちゑと云われているというのに何故だったのだろうか。


 実は、当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながらそれらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていた。ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。
 そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに『同園八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病の為に伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
 そして、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、同島の新聞『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
     あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していたちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があるという。


 ところで、昭和3年6月の大島訪問以前に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったとうことだが、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知なかったことによる誤解だった。
 なぜなら、このような『二葉保育園』でスラム街の子女のためのセツルメント活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという心優しい〈聖女〉の如きちゑからは、当時の賢治がどのように見えたかということを推考してみれば、その一つの可能性が浮かび上がってくるからである。
 すなわち、佐藤竜一氏も主張するように、昭和3年6月の賢治の上京は「逃避行」であったと見ることができるから、そう捉えるとあくまでも理屈の上での話ではあるが、前述した事柄に対する次のような解釈がそれぞれ可能となる。
 例えば、そのような心身の状態にあった賢治と昭和3年6月に大島で再会したちゑは、賢治の「今」を見抜いてしまい、自分の価値観とは相容れない人であると受け止めたと。ちなみに、そのようなちゑの認識の一つの現れが、先に述べたきつい一言であったと考えられる。
 またそれゆえに、先の森宛書簡に、「あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました」<*1>とちゑは書き記したと解釈できるし、その後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも。
 そして、もしこのような解釈の仕方がその真相であったと仮にしても、それは《創られた賢治から愛すべき真実の賢治》により近づくことであり、何ら悲しむべきことではないと私は思う。


 その後、私は賢治研究家B氏から、
      伊藤七雄・ちゑが花巻を訪れた時期は昭和2年の10月であった。
と宮澤清六が直接B氏に証言したということを教えてもらった(平成27年9月20日、花巻F館にて)ので、これと先のちゑの藤原嘉藤治宛書簡の記述とを併せて考えれば、
      伊藤兄妹が賢治との見合いのために花巻を訪れたのは昭和2年10月であった。
とほぼ断定できるだろう。そしてそれは奇しくも、
    (賢治先生から)昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。
                    <『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)81p >
と高瀬露が遠野時代の同僚に証言しているが、その「下根子桜」訪問を遠慮し出した直後のことであったということになる。
 したがって、この見合いの時期がほぼ確定したということはとても重要な意味合いを持つ。それは蓋然性の高いあることに気付かせてくれたからだ。


 さて、先に私は拙論「聖女の如き高瀬露」を上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』において公にしたのだがそのこともあり、賢治研究家M氏からその後、
     露はどうして〈悪女〉にされたのでしょうね。
と問われた。この方は、以前〈高瀬露悪女伝説〉を話題にした際に、

   あれは賢治が悪いのさ

と一刀両断された方でもあったのだが、私はまだまだ勉強不足であった。
 たしかに、同拙論で検証したみたところでは、露が〈悪女〉であるという客観的な根拠は何一つ見つからないから彼女は巷間言われているような悪女では決してなく、それどころかどちらかといえば聖女の如き人だったということを同拙論で実証できたものの、現実には巷間そうされていているわけだからその「理由」は必ずあるはずだ。しかし私はそれは見出せていなかったので、その問いに対して、
   その点に関してはわかりませんでした。
とお答えするしかなかった。
 実際、この点に関しては誰一人として公には言及していないはずだ。そして実は私はそこに踏み入るつもりはそれまではあまりなかった。露が巷間言われているような〈悪女〉でないということは、ある程度賢治と露のことを識ってしまえば常識的に明らかなことだったからそれを仮説として、その検証をし、できれば実証したいという一心だったからだ。
 しかしそれをなんとかやり遂げたかなと当時思い込んでいた私は、その「理由」を賢治研究家M氏から問われてこれはまずいなと反省した。少なくとも拙論「聖女の如き高瀬露」を公にした以上は、その点に関しての私見を一つぐらいは持っておくべきだと考え直して、あれこれ考えてみた。
 そんな時にたまたま教えてもらったのが上述の清六の証言だが、そのことを知ってあることに気付かせてもらった。それは、先に引用したように、
     露が「下根子桜」に賢治を訪ねていたのは昭和2年の夏までであった。
ということと、
     伊藤ちゑが賢治との見合いのために花巻を訪れたのはほぼ昭和2年10月であると言える。
ということの時間的な推移から示唆されることである。

 

<*1:投稿者註> 平成26年9月25日に私は伊藤ちゑの生家を訪れた。そしてその際、当主から、「あの頃私の家では、ちゑと賢治の結婚に皆反対していた」ということ等を教わった。

 

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 このブログ〝hontounokenji’s blog〟の開設を記念して、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』に興味関心のある方に同書を

 ある時、恩師が、

     賢治はあまりにも聖人君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知           っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。

と私たちの前で嘆きました。当時、宮澤賢治を最も尊敬していた私はショックでした。しかも、恩師は賢治の甥(妹シゲの長男)の岩田純蔵先生であったからなおさらにです。そうか、巷間云われている賢治をそのまま信じる訳にはいかないのか、と気付きました。

 そこで私は、この十数年ほどをかけて賢治のことを検証してきました。すると、「定説」や『校本宮澤賢治全集第十四巻』等においてさえも、これはおかしいぞと思われる事柄が少なからず見つかるのでした。そしてそのような事柄の中で私が特に問題にしているものが二つあり、少し調べてみただけでも〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣であることが判るのに、それを賢治学界が放ってきたことがまず一つです。血縁以外の女性の中で賢治が最もお世話になった高瀬露がとんでもない〈悪女〉にされているという実態があり、これは人権問題だからです。
 もう一つが、「賢治終焉前日の農民との面談」の定説の杜撰さであり、

 小学校の国語の教科書で、賢治終焉前日の見知らぬ農民との長時間の面談をあたかも事実<*1>であるかの如くに今でも教えていますが、そのような事実は未だ検証されてはおりません。

 したがって、この教材で、自分の命まで犠牲にして農民のために尽くした「聖人君子の宮澤賢治」像を育む小学生が今でも少なからずいるでしょう(実際、私鈴木もその一人でした)から、純真な子どもたちを騙している虞れのあることをこのまま続けていっていいのですか。もう止めていただきたいということです。
 このような事柄などを、石井洋二郎氏の鳴らす、

  あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること

という警鐘を心懸けながら、賢治の周辺を渉猟してみたことによりたどり着いた結果を一冊にまとめたものが拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』です。

《お申し込み方法》
 この『このままでいいのですか『校本宮澤賢治全集』の杜撰』をご希望の方は、以下のような流れでお申し込みください。

スマートレター(210 円)をコンビニや郵便局窓口などでご購入いただき、宛先欄に「お客様のご住所とご氏名」をご記入ください。
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スマートレターを三つ折りにして、封筒(長三封筒がオススメ)にお入れください。
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その封筒に「〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11  鈴木守行」とご記入し、110円切手をお貼りの上、ご投函ください。
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投函していただきました封筒が鈴木守に届き次第、スマートレターに『このままでいいのですか『校本宮澤賢治全集』の杜撰』を同封して返送いたします。


 なお、この件につきましては出版元の録繙堂出版のHP

  ホーム - 録繙堂出版(案山子庵)

の このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰 - 録繙堂出版(案山子庵)

でもお知らせ、案内して頂いておりますのでどうぞご覧ください。

<*1:投稿者註> ここで言う「事実」とは、巷間こう云われてはいるが「本当のところは実はこうであった」という意味でのそれです。ちなみに『広辞苑』には、

  【事実】①事の真実。真実の事柄。本当にあった事柄。

と載っていて、この①の意味でです。つきましては、

  今後私が使う「事実」=本当にあった事柄

ということにさせて頂きます。        鈴木守